心が折れそうな時に、もう一度立ち上がるための言葉たち ─ 不安とピンチを越えてきた経営者の記録 ─

零細企業を経営しながら、6年間「倒産の恐怖」と向き合ってきました。 不安で眠れない夜を越えるたび、救ってくれたの「言葉の力」でした。 このブログは、自分を立て直してきた思考と実感の記録です。 不安を語る場所ではなく、不安を越えてきた証を残す場所。 「もうダメかも」と思った時に、同じように誰かが前を向くきっかけになれたら嬉しい。

こんなに頑張っているのに、なぜうまくいかないのか。『実らせるのは俺の仕事じゃない』と気づいた日

David Ballew


俺はこれまで、何度もこう思ってきた。

「こんなにやっているのに、なんでうまくいかないんだ……」

仕事もそう。

新しく始めたこともそう。

自分なりに考えて、行動して、失敗したらやり方を変えて、それでも諦めずに続けてきた。

それなのに、なかなか思うような結果が出ない。

世の中を見渡せば、自分と同じようなことをやって、あっという間に結果を出している人もいる。

自分より後から始めた人が、いつの間にかずっと先を走っていることもある。

そんな人を見るたびに思った。

「同じことで簡単にうまくいっている人もいるのに、なんで俺はうまくいかないんだ?」

努力が足りないのか。

やり方が悪いのか。

才能がないのか。

だったらもっと頑張らなきゃいけない。

もっと考えなきゃいけない。

もっと行動しなきゃいけない。

ずっとそんなふうに、自分を追い立ててきた気がする。

でも今日、ふと思った。

そもそも俺は、自分の力で「実らせよう」としすぎていたんじゃないか。

人生には、いろいろな木がある

人生を庭に例えてみる。

俺の目の前にも、いろいろな木がある。

長い年月をかけて育て、今も実をつけてくれている老木がある。

何年も水をやり続けて、ようやく少しずつ大きくなってきた若木もある。

まだ土から顔を出したばかりで、この先どうなるのか分からない小さな芽もある。

俺にできることは、その木々を育てることだ。

水をやる。

土が悪ければ耕す。

必要なら肥料をやる。

日当たりが悪ければ場所を変えてみる。

枯れそうなら手当てをする。

できることはいくらでもある。

でも、

「来年までに絶対に大きな実をつけろ」

と木に命令したところで、どうにもならない。

当たり前の話だ。

でも俺は、ずっとそれをやっていた気がする。

水をやったそばから、

「まだ実らないのか?」

と木を見る。

少し成長が遅ければ、

「この木はダメなんじゃないか?」

と不安になる。

隣の庭を見れば、大きな実をつけている木がある。

「あの人の木はあんなに実っているのに、なんで俺の木は実らないんだ?」

そして焦って、また水をやる。

もっと肥料をやる。

しまいには土を掘り返して、

「ちゃんと根っこは伸びているのか?」

と確認したくなる。

これじゃ、木も迷惑だろう(笑)

育てることと、実らせることは違う

考えてみれば、仕事も人生も、自分の力だけで決まるものではない。

時代が変わる。

景気が変わる。

環境が変わる。

人が変わる。

突然、思いもしなかった出来事が起きる。

逆に、たった一人との出会いから、想像もしなかった方向へ人生が動き出すことだってある。

そんなものまで全部、自分でなんとかしようとしていた。

そりゃ疲れるわけだ。

だったら、自分の仕事と、自分にはどうにもできないことを分ければいい。

今日、ようやく一つの言葉になった。

育てるのは俺。
実るのは天命。

俺の仕事は「実らせること」ではなかった。

今日、水をやることだった。

今日の水をやればいい

今ある仕事に一杯。

育てている新しい挑戦に一杯。

まだ小さな可能性にも一杯。

今日できる改善をする。

今日作れるものを作る。

今日会える人に会う。

失敗したら、明日は水のやり方を少し変えてみる。

そこまでは俺の仕事だ。

でも、その木が一年後にどれだけ実っているのか。

この挑戦が成功するのか。

五年後、俺が何をしているのか。

そこまで今日の俺がなんとかしようとしなくていい。

だって、誰にも分からないんだから。

「今日もよう水をやった」

俺は昔から「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が好きだった。

「今日のベストを尽くして、結果は委ねる」

何度も自分にそう言い聞かせてきた。

でも今日、ようやくその意味がもう一段、腹に落ちた気がする。

今日のベストを尽くすというのは、今日、水をやること。

そして、

天命に委ねるというのは、実るかどうかまで自分の仕事にしないこと。

なんだ。

今までの俺は、

「こんなに水をやっているのに、なんで実らないんだ」

と苦しんできた。

でも、見るべきところはそこじゃなかったのかもしれない。

今日、ちゃんと水をやったか。

昨日より少しでも育つためのことをしたか。

俺が責任を持つのは、そこまででいい。

だから一日の終わりに、大きな成果が出ていなくてもいい。

売上が増えていなくてもいい。

人生が劇的に変わっていなくてもいい。

自分の庭を眺めて、

「今日もよう水をやった。」

そう言えれば、それでいい。

そして酒でも飲んで、寝ればいい。

明日の朝になったら、また庭へ出る。

そしてまた、目の前の木に水をやる。

人生なんて、案外その繰り返しなのかもしれない。

結果ばかり見ていると、まだ実っていないというだけで、自分の人生まで失敗しているような気持ちになる。

でも違った。

俺は、実の番人じゃない。

庭師だったんだ。

俺の仕事は、未来を実らせることじゃない。

今日、目の前にあるものを育てること。

だから今日も水をやろう。

焦らず。

腐らず。

今日できることをやる。

そして日が暮れたら、

「今日もよう水をやった。」

そう言って酒でも飲んで寝よう。

実るかどうかは、天に任せればいい。

人生に「災難」なんて、本当はないのかもしれない

Jametlene Reskp

「明けない夜はない」
「止まない雨はない」

よく聞く言葉だ。

 

でも、そもそもその夜やその雨は、そんなに悪いものなのだろうか。

僕はここ数年、会社の将来についてずっと不安を抱えている。

うちの業界は縮小している。このまま仕事が減り、穴を埋めるために立ち上げた新規事業の成長が間に合わず、会社が立ち行かなくなったらどうしよう。借金を背負ったら。家族に迷惑をかけたら。

そんな「まだ起きてもいない未来」を、何度も先回りして恐れてきた。

 

そんな中、以前、沖縄の知人が言った言葉を思い出した。

その人はは二度の離婚を経験している。僕が酒を飲みながら「それはなかなか大変な人生でしたね」と言うと、あっけらかんとこう返された。

 

「全然大変じゃないよ。人生は良くなるようにしかなってないからね」

 

この言葉が、今になって妙に腹に落ちた。

彼女にとって二度の離婚は、人生の「谷」ではないのだ。

それがあったから次の人生が始まった。今の自分になるために必要だった出来事。つまり、幸せになっていく道中の一つだったのだろう。

 

江戸時代の禅僧・良寛にも、こんな言葉がある。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

災難を必死に避けようとするのではなく、起きたことを受け入れる。それが災難から逃れる道だということらしい。

 

ニーチェにも「運命愛(アモール・ファティ)」という思想があるとか。自分に起きる運命を、ただ耐えるのではなく、自分の人生として肯定する。

キリスト教の『ローマの信徒への手紙』にも、「すべてのことが共に働いて益となる」という有名な教えがある。

 

東洋でも西洋でも、時代を越えてどこか同じ場所を指しているように思える。

 

でも僕は今回、そこからさらに一つの疑問を持った。

「そもそも、それは本当に災難なのだろうか?」

もちろん、今まさに災難や困難の真っただ中にいて、辛い思いをしている人はたくさんいる。

その人に向かって「それは災難じゃない」「良くなるために起きたんだ」などと、僕には簡単には言えない。

自分自身、本当の困難の渦中に放り込まれた時、同じことを言える自信も正直ない。

 

でも、少なくともまだ起きてもいない未来については違う。

僕は「会社が立ち行かなくなったら」「借金を背負ったら」「今の生活を失ったら」と、まだ起きてもいない出来事を先回りして「災難」と決めつけ、それを恐れてきた。

 

でも、本当にそうなのだろうか。

 

もし会社が立ち行かなくなるという出来事によって人生の方向が大きく変わり、その先で今では想像もできない人生に辿り着いたとしたら。

10年後の僕が「あれがあったから、今の俺がいる」と笑っていたとしたら。

それは「谷」だろうか?

もしかしたら人生には、山あり谷ありですらないのかもしれない。

僕たちはその瞬間の都合で、出来事を勝手に「山」と「谷」に分類しているだけで、長い人生から見れば、すべてが幸せになっていく一本の道の途中にある出来事なのかもしれない。

 

そう考えたら、まだ起きてもいない未来を恐れる必要なんてない。

何が起きてもいい。

それがあるから、もっと良くなる。
それがあるから、次の人生が始まる。
それがあったからこそ、いつか理想の人生に辿り着く。

 

そう愚直に信じて歩いたほうが、まだ起きてもいない災難に怯えながら歩くより、人生はずっと実り多いものになるはずだ。

 

雨が止むのを待つ必要すらない。

そもそも、その雨は「悪い天気」ではないのかもしれない。

 

人生で起きることは必要なことで、それがあることで人生は良くなっていくのだとしたら?

 

今までの人生を振り返ってみても、当時は「最悪だ」と思った出来事が、今の自分や今の幸せをつくる大事な出来事だったのは間違いない事実。

あれがあったから、今がある。

だったら、これから起きることだって同じなのかもしれない。

会社がどうなるかも分からない。仕事も、お金も、人生そのものも、この先何が起きるか分からない。

でも、それでいい。

何かを失うことさえ、その先でもっと大切な何かを手に入れるために必要な出来事なのかもしれない。

だったら、まだ起きてもいない未来を「災難」と決めつけて恐れる必要なんてない。

 

何が起きても、それがあるから俺の人生はもっと良くなる。

 

そう信じられたら、人生から恐れるものがずいぶん少なくなる。

雨が降ったら、雨が止むのを待つのではない。

「この雨も、俺がより幸せになるために必要なんだ」

くらいでいい。

そして、いつか振り返った時に、

「あの雨が降ったから、ここに辿り着いたんだな」

と笑えればいい。

 

人生は良くなるようにしかなっていない。

 

本当にそうなのかは、今の僕には分からない。

でも、まだ起きてもいない災難を恐れて生きるより、そう愚直に信じて生きるほうが、僕の人生はきっと豊かになる。

これからは、そう信じて生きてみようと思う。

人生はレースじゃない、旅だ。 48歳でようやく分かった「正しく生きるより人生を楽め」ということ

Chae Kim

子供の頃、イソップ童話からいろいろなことを学んだ。

「アリとキリギリス」を読めば、

アリのように真面目に働かなきゃいけない。
キリギリスのように遊んでばかりいてはいけない。

「ウサギとカメ」を読めば、

才能にあぐらをかいてサボってはいけない。
カメのようにコツコツ努力する人間にならなければいけない。

そう思った。

それから何十年も経って、48歳になった。

人生もそれなりに経験した。

仕事をして、会社を経営して、結婚して、子供を育て、うまくいったこともあれば、失敗したこともある。

未来が怖くて眠れない夜もあった。

そんな今、改めてイソップ童話を考えてみたら、ふと思った。

本当にアリとカメだけが正解だったのだろうか?

キリギリスは本当に「人生の敗者」なのか

もちろん、冬に備えて働いたアリは立派だ。

備えることは大切だし、遊んでばかりいて冬に困ったキリギリスには反省すべきところがある。

でも、人生全体として考えてみる。

夏の間、アリはせっせと働いた。

その一方でキリギリスは、暖かい太陽の下で歌い、夏を楽しんだ。

冬を無事に越したのはアリだ。

でも、

この世界の素晴らしさをより味わったのは、どちらだったのだろう。

もしかしたら、夏の間に働きすぎて死んでしまったアリだっていたかもしれない。

もちろん、だからキリギリスの生き方が正しいと言いたいわけではない。

ただ、

「どちらが正しかったか」と
「どちらが幸せだったか」は、別の話なんじゃないか。

48歳になった今は、そう思う。

ウサギは負けた。でも昼寝は気持ちよかった

ウサギとカメも同じだ。

レースの勝者は間違いなくカメだ。

最後まで諦めず、一歩一歩進んだカメは素晴らしい。

一方のウサギは途中で油断して昼寝をして、負けた。

子供の頃は単純に、

「ウサギ、バカだなあ」

と思った。

でも今は少し違う。

確かにレースには負けた。

でもウサギは思いっきり走った。

そして疲れたら、草原で気持ちよく昼寝した。

それって、そんなに悪いことなのだろうか。

ここで、ふと気づいた。

そうか。

これは「レース」だからカメが勝者になるのだ。

では、人生そのものは本当にレースなのだろうか。

人生はレースではなく、旅なのかもしれない

もし人生がレースなら、

早い方がいい。

人より先へ進んだ方がいい。

寄り道しない方がいい。

休まない方がいい。

正しいコースから外れない方がいい。

そして失敗は減点になる。

でも、

人生が旅だとしたら?

途端に景色が変わる。

道を間違えてもいい。

寄り道してもいい。

疲れたら休んでもいい。

予定を変更したっていい。

むしろ旅を振り返った時、面白い思い出になっているのは、予定通りにいかなかった出来事だったりする。

旅行に行って、

「予定通り10時にここへ行き、12時にここで食事をして、15時にホテルへ着きました」

という旅もいい。

でも何年経っても語りたくなる旅は案外、

「電車が止まっちゃってさ。仕方なく知らない町で降りたら、そこで入った店が最高で……」

みたいな旅だったりする。

予定外が、旅を物語にする。

人生も同じなのではないか。

挫折も失敗も「旅程変更」

人生をレースとして考えると、失敗は怖い。

会社がうまくいかなかった。

マイナス。

仕事を失った。

マイナス。

離婚した。

マイナス。

目指していた学校に入れなかった。

マイナス。

夢が叶わなかった。

マイナス。

人生というレースの採点表から、どんどん点数が引かれていく。

でも人生を旅として見たらどうだろう。

旅程変更。

もちろん、その出来事の真っ只中にいる時は苦しい。

泣くこともある。

絶望することだってある。

だから失敗や挫折そのものを「素晴らしい出来事だ」と美化する必要はない。

でも、

悪い出来事が起きたからといって、悪い人生になるわけではない。

その場所から、また違う道へ進めばいい。

そして何年か経って振り返った時、

「あそこから俺の人生、思わぬ方向へ行ったんだよな」

と語れる日が来るかもしれない。

それもまた、旅の思い出になる。

「失敗しない人生」より「面白い人生」

私はこれまで、

「失敗しない人生」を目指していたのかもしれない。

でも本当は、

「面白い人生」を送りたかったはずだ。

この違いは大きい。

失敗しないことを人生の目的にすると、未来が怖くなる。

正しい道を選ばなければならない。

間違えてはいけない。

損をしてはいけない。

人生のコースから外れてはいけない。

でも、旅なら違う。

そもそも、旅に絶対的な正解も間違いもない。

予定していた場所へ行くのも旅。

予定を変更して、まったく知らなかった場所へ行くのも旅。

どちらが正解ということではない。

そこで何を見て、何を感じ、誰と出会い、何を経験したのか。

それが旅を豊かにする。

だったら人生だって、

正しい道を歩くことより、自分の旅をちゃんと味わうことの方が大切なのではないか。

その時は、その時

そして、この考え方にたどり着くと、未来への不安も少し軽くなる。

人生が予定通りにいかなかったらどうしよう。

大きな失敗をしたらどうしよう。

今持っているものを失ったらどうしよう。

そんなことを私は何度も考えてきた。

でも、それも旅だ。

予定が狂ったら、

その時は、その時。

その場所から次の行き先を考えればいい。

しかも、その未来には自分もいる。

今より経験を積み、

今より知恵をつけ、

今より強くなった自分がいる。

何か起きたら、その時の自分が考える。

転んだら、その場所から立ち上がる。

ダメなら次の手を打つ。

未来が大丈夫だと信じる必要はない。

大丈夫じゃなくても、その時の自分がなんとかする。

なんとかできる。

だから未来を恐れて、今日という旅を台無しにする必要はない。

アリにもなろう。キリギリスにもなろう。

結局、アリとキリギリス、ウサギとカメ。

どちらが正しいかなんて、決めなくてよかったのだと思う。

アリのように備えよう。

必要な時には働こう。

カメのように歩こう。

苦しい時にも一歩ずつ進もう。

でも――

キリギリスのように歌おう。

目の前に素晴らしい夏があるなら、ちゃんと楽しもう。

そして、

ウサギのように昼寝もしよう。

疲れたら休めばいい。

草原が気持ちいいなら、そこで少しくらい寝転んだっていい。

人生は、ゴールするためだけにあるわけじゃない。

道中こそが、人生なのだから。

最期に「いい旅だった」と言えればいい

いつか人生の終わりに、自分の旅を振り返る日が来る。

その時、私が欲しいのは、

「失敗のない完璧な人生でした」

という経歴書ではない。

「あんなこともあったな」

「あの時は本当に参ったな」

「あそこで道を間違えたんだよな」

「あれは楽しかったな」

「あそこでは泣いたな」

「あの出来事から、まったく違う人生になったんだよな」

そんなふうに、思い出せる景色が山ほどある人生がいい。

嬉しいことも。

悲しいことも。

成功も。

失敗も。

挫折も。

予定変更も。

寄り道も。

昼寝も。

全部、自分だけの旅の思い出になる。

だから、これから先もいろいろあるだろう。

それでいい。

むしろ、何が起きるか分からないから面白い。

未来で何か起きても、その時の自分がなんとかする。

だから今日の自分は、今日の景色を楽しもう。

人生はレースじゃない。旅だ。

勝つ必要なんてない。

正しい道だけを歩く必要もない。

道に迷ったら、そこからまた歩けばいい。

そして最期に、自分の人生を振り返った時に、

「いやぁ、いろいろあった。
でも、面白い旅だったな」

そう笑えたら。

それが私にとっての、

最高の人生なのだと思う。